風船の話その2、歴史編

タイトル写真おもちゃの話

タイトル写真

風船に関係する歴史年表

年表
おもちゃとしての風船は誰か特定の人や集団や団体が作り出したのではなく、長い歴史をへておおくの人々が関わって、徐々に形になってきたものです。駄菓子屋で扱っているおもちゃはそうした性格のものが顕著で、洋の東西を問わず、若者からお年寄りまで、だれでも知っている普遍的なものが多くあります。風船もそうした性格を持った商品の一つです。
風船が今のような形になるまでにたどった経緯がわかりやすいように、年表にしてみました。源流には3つの分野があって、それぞれ別々に起こっていたことが一緒になって現在の風船が生まれました。3つの分野とは、1:材料素材ととしてのゴムの発見と加工2:ガリレオ・ガリレイから始まる空気の研究。3:伝統的な子どもの遊びとしての風船の素材の変化です。

ゴムの発見と利用

年表に番号のついた項目で説明します。まずゴムに関しては①1493年にコロンブスの2回目の航海で現在のドミニカ、プエルトリコ島に上陸したとき、子どもたちが弾力性のある
ボールで遊んでいるのを見つけ、その原料が樹脂であることを確認し、見たこともない不思議な物質だと感じつつ、ヨーロッパに持ちかえった。しかしベタベタしていて乾くと固まってしまうこの天然の素材については使い道が見つからず長い間放置されていました。17世紀になって、まずケシゴムとして利用されます。英語でゴムのことをrubberといいますが、本来の意味の「擦る」のrubに由来します。その後、ゴムがどろどろとした液体であることで、防水用の塗布材としての利用が考えられ、レインコートに利用されます。ゴムの利用が本格的なるのはゴムを固形化する技術が考案されてからです。1839年、チャールズ・グッドイヤー(米国)という人が、乳液に硫黄を混ぜて加熱してゴムを固形化させる「加硫法」を開発したことのより、ゴムの用途が広がり工業化が始まります。しかしゴムの原料はブラジルのアマゾン川南領域に自生する通称パラゴムで、輸入に頼るだけでは需要に追いつかず、イギリスはこのゴム種の栽培化計画を実行します。

天然ゴムの発見と利用

ゴムの伝播

これらの経緯はこの世界地図で説明します。まず①でコロンブスが樹液状のゴムをプエルトリコ・ドミニカ島で発見し②のヨーロッパにもたらします。その後300年以上経って、ゴムの固形化に成功し、需要が増えたため、1876年イギリスはゴムの栽培化を計画して③のブラジルアマゾン川流域に自生する學名が「ヘベア・ブラジリエンス、自生地がブラジルのパラ州なので、通称パラゴム」という種類のゴムの種70000粒を④のロンドン郊外のキュー植物園(現在世界遺産に登録)に輸送します。この大きな温室で2600粒が発芽します。そしてこの苗木をスエズ運河経由でイギリスの植民地であるセイロン(スリランカ)やシンガポールの植物園へ運び、苗木を育てそれをマレー半島、インドネシアに移植しゴム園を作っていきます⑤。現在、天然ゴムの主要産地が東南アジア地域なのはこの大移植事業の結果です。要するに18世紀19世紀の帝国主義時代の一大戦略物資であったわけです。20世紀の初めになって合成ゴムが発明され、自動車産業をはじめ建設業や各産業からの需要は、現在全世界の需要の2/3は合成ゴムがまかなっていますが、天然ゴムの需要も1/3あります。弾力性や粘性について、合成ゴムは天然ゴム(ラテックス)に及ばないので、飛行機や大型トラックのタイヤそれにわずかではありますがゴム風船に利用されています。以上の経緯については⑥の書籍「ゴム物語」(中川鶴太郎著、大月書店)の一部から要点をまとめました。著者は化学専門の大学教授で、本の内容は専門の高分子化学が主体なのですが、こちらの内容は専門過ぎて手に負えませんので前半の歴史エピソード部分を参考にさせていただきました。世界地図に表示した写真はこのパラゴムの種、葉っぱ、樹液の採取方法、ゴムの栽培農園です。家庭用で観葉植物として馴染みのゴムの木とは種類が違います。ちなみに現在自然に育っているパラゴム種は野生の樹木はなく、すべてはゴム園での栽培樹木だそうです。

空気をはじめとする気体の発見と利用

―初めて人類が空を飛ぶ。
年表の中段の技術欄の説明になります。近代科学の出発点として、「飛行機の話」でガリレオ・ガリレイを取り上げましたが、ここでもガリレオから話を始めます。
気球の写真あまり身近すぎて存在をも気にしない空気に重さがあることをガリレオは論じました。弟子のトリ¬チェリーがガラス管に入れた水銀の高さを測って空気の重さを測定しました。この話は中学の理科の教科書で習います。そのあとパスカルが場所(高地か低地か)により重さに違いがあることを確かめました。さらに空気の成分にも関心が進み、二酸化炭素、燃える気体(酸素)、毒のある気体(窒素)、空気より軽い気体(水素)などがみつかり、1800年頃にはすでに金属類も含め30種類の元素が見つかっています。1783年は画期的な年です。人類が初めて空を飛んだ年です。飛行機が初めて空を飛んだのは1903年ですがそれよりも120年前に気球で空を飛びました。しかも2種類の気球が連続して飛びました。写真の②③④がその気球です。場所はフランス、まず最初はモンゴルフイユという紙問屋の兄弟が、熱気球を飛ばします。たき火をすると暖められた空気は軽くなって上空に揚がります。熱気球はこの原理です。大きな紙の袋に布で裏張りをして、下でたき火をして熱せられた空気を気球に送り込みます。場所はベルサイユ宮殿の広場で多くの観客を集めての大きなイベントです。まだフランス革命は起きていませんので、国王ルイ16世と王妃マリーアントワネットも臨席しています。図の②は熱い空気を気球の口に送り込んで気球がふくれあがる様子、図の③はベルサイユ広場でのデモンストレーションの様子です。それからわずかの間に今度は科学者のシャルルの法則有名なシャルルが、布製の気球にゴムで裏張りした水素気球を飛ばします。水素は硫酸液に鉄クズをいれ、ガスを発生させて作ります。図の④です。熱い空気と水素では浮力が4倍以上違いますので、気球の大きさは熱気球より小さくてすみます。図の③と④を比較すると、気球の下部に大きな口が開いているのが熱気球、閉じた丸形が水素気球です。18世紀になると水素ガスを利用して飛行船が発明されます。気球は風任せでどちらに飛んでいくかわかりませんが、気球の形を球形から筒型に変え、エンジンをつけて横方向に移動できるようになります。さらにヘリウムガスが発見されて、燃えやすい水素の代わりとなってより安全な飛行ができるようになります。飛行船は20世紀の前半は空の移動手段として活躍しますが、1930年頃からは後発の飛行機の性能が向上して主役の座を降りました。しかし最近は熱を利用した熱気球がスポーツや、観光などで利用されています。
―水素気球と熱気球との浮力の違い
話を初期の気球の話に戻して、水素ガス、熱気球でどれほど浮力に違いがあるか、ヘリウムガスも含めて計算がすると以下の様な値となります。
浮力の数値

この数値を比較するとガス気球のほうが熱気球より4~5倍浮力が大きいことがわかります。従って風船の大きさもその分小さくて済みます。この数値の詳しい導出についてはちょっと専門的になりまの改めて「風船の話パート3」の記事で説明します。興味のあり方はご覧ください。
―参考にした本の内容の紹介
今までの技術的内容について、空気や気体については①「空気の発見」(著者三上泰雄、角川ソフィア文庫)を参考にしました。この記事では要点をまとめただけですが、詳しくはこの本をご覧ください。興味深い話がいろいろ載っています。著者は気象学専門の気象大学校の教授で、この本は青少年向きのA6判150ページ余りの小さい本ですが、内容がわかりやすくお勧めです。特に化学の勉強の第一の関門である「モル」の概念が非常にわかりよく説明されています。化学で挫折する人のだいたいはこの「モル」が原因です。この関門を突破すればその後の知識は比較的抵抗なく吸収できます。現在社会では医療、健康、栄養、遺伝子など医学や生命関係の情報が氾濫していますが、そのもととなる高分子研究の基礎である化学式にも「モル」が基礎になっています。快適な生活を享受するためにも化学的知識に対して苦手意識がないほうが有利だと思います。
気球のイラストや図版②③④は⑤の「飛行船の技術と歴史」(牧野光雄著、成山堂書店)から引用しました。筆者は航空工学が専門の大学教授です。内容の主体は飛行船の技術解説本ですが、飛行船の前歴史として2種類の気球を説明しています。絵本やアニメなどでは優雅に飛んでまるでおとぎ話の世界のように飛行船が扱われていますが、上昇、下降、旋回、繋留など実際の操縦となると技術な難問がいろいろ立ちふさがっています。その技術的問題をクリアし、飛行船は黄金時代を経たのち飛行機にその座を譲った経過など、この本は技術的側面から飛行船を図解や写真入りで説明しています。しかし飛行船は飛行機に比べて省エネで環境に優しいというメリットもあるので、未来への可能性も述べています。
飛行船に興味のある方にはお勧めの本だと思います。

ゴム風船のはじまりと日本への伝播

現在の風船がこの形になるまでの3つ目の分野は年表の下段の風船欄です。
風船の伝播―絵画に見る風船の原型
16世紀の枠に「膀胱風船」と記載しました。上の写真①をご覧ください。この絵はご存じの方も多いかと思いますが、幼児教育、遊びなどを研究する資料としては定番の絵画で、多くの研究者に利用されています。16世紀のフランドル(現在のオランダ、ベルギー)の画家のピーター・ブリューゲルの「子供の遊戯」(1560年制作、ウイーン美術史美術館蔵)という作品です。画面には当時の子供のあそび91種類が描かれています。文字資料として残りづらい遊びの仕方、材料、おもちゃそのものなど、絵画資料は大いに参考になります。日本の場合でも絵巻が参考になります。この絵をちょっと見るだけでも風船、しゃぼん玉、こま回し、竹馬、ごっこ遊び、お手玉、風車、水鉄砲、ボール遊びなど現在の日本でもなじみのある遊びが見つかります。もちろんたとえば盤上遊戯(サイコロ、バックギヤモン、ゲーム)や、日本の古来の「貝合わせ」や羽根つきなどすべてが描かれているではありませんが、それでも時代や土地柄の雰囲気は伝わってきます。この絵画の内容についての解説は③の「ブリューゲルの子供の遊戯 ― 遊びの図像学」(森洋子著、未来社)から知見を得ています。著者は「中世ヨーロッパの絵画」専門家であり、特にブリューゲルの研究では日本における第一人者です。
今回のテーマである風船は絵画の右下、拡大した図が②で風船の遊びの原型です。年表でも記したようにゴムの固形化はこの時代から300年後ですので、当然この膨らんだ物体の素材はゴムである筈はありません。そしてこの膨らんだ物体は豚の膀胱なのです。ヨーロッパの食習慣においては栄養の源泉は小麦粉と家畜の肉です。食肉のために家畜の豚を解体したあとの消化器系器官は腸詰や子どものおもちゃに利用されます。膀胱は弾力性があるのでボールあそびや風船と同じ役割を果たしていました。もちろんこの絵画からは風船遊びの起源を求めることはできませんが、家畜の利用を考えれば紀元前のかなり古い時代からあったことが想像されます。
―ガス風船の日本到来
ゴムの固定化によるゴム風船と水素ガスによる利用で水素ガス風船が幕末に日本にもたらされます。このいきさつについては④の「日本事物起源全8巻」(石井研堂著、ちくま学芸文庫)に記載されています。
著者は慶応元年(1865年)生まれで、明治、大正、昭和初期の新聞雑誌のジャーナリスト。文明開化の西洋から日本に流入する新しい事柄が記事になっています。その分野は広く政治、法律、経済、社会、文化のなどの諸制度をはじめとし、衣食住にかかわる庶民生活全般にわたって、モノやコトについて3000を超える項目を記述しています。記述の素材は職業がら自らの目と足で確かめたことのほかに、交友関係や同時代の雑誌や新聞記事からも取り上げています。この膨大な内容について著者の記述力には驚かされますが、さらにこの記述された項目のほとんどが、現在の暮しに身近な存在であることが注目されます。この書籍を見ていると、明治時代の変革は尋常でなかったことが解ります。
ゴム風船にかぎらず、お菓子や、食材などこのブログに関係する事柄がいろいろありますので、今後も機会があるごとにこも本を参照します。
さて「ゴム風船」については最終巻の第8巻の第20編、器財部のなかに出てきます。
風船はゴムの項目で「ゴム櫛」、「ゴム印」につづいて、8つの記事が記述されていますが、記事の要点を箇条書きにしてみます。
1:はじめての出会いとして、慶応4年の「此花新書」という記事からの引用で
「横浜で支那人(中国人)が葡萄色で蹴毬より少し小さな皮の様な袋に、なんらかの「気」を籠めて膨れあがった丸いものを路上で売っている。価格は一分か一分二朱程である。子どもの凧のような遊びで、フワフワしていて、空に飛んでいかないように木綿糸でつながっている。大変破れやすいもので、その後、あまり見かけない。野毛から子どもが手を離し、飛んで行った風船が1里半程離れた保土ヶ谷の松の木に引っかかっているのを農民が見つけ、天から火の玉が降ってきたと大騒ぎした。記者の推測でこの「気」とは石炭の油からでるものではないか」との記事である。
2:慶応4年4月「内外新報第17号」より
「ある人の話としてイギリス人ハートリーという人が大阪の江戸堀二丁目の町医者の家に同居して、医療に従事するかたわらに副業としてゴム笛を仕入れてその中に「気」を籠めて口に栓をしてスガ糸つけて空中に浮かしながら繁華街を遊歩すると注目を引き、ほしがる人が多くて、おおいに利をえた」という記事を記載。(注:ゴム笛とは写真⑤様な風船の改造か)
3:明治5年、日本初の鉄道開通式に明治天皇が臨席、新橋駅構内で花火を打ち上げ軽気球をとばした。この気球はあきらかにゴム風船である。
4:明治8年、旧開成学校製作学教場の理学教師市川盛三郎が赤ゴムに水素ガスをいれて、浮遊させるのを生徒に見せて、生徒も製作した。
5:明治9年頃、縁日や人の集まるところで小児用の玩具として市中いたるところで人気があった。
6:明治10年の京都の記事「球凧といわれているが風船は火を吐くので危険物として発売禁止となる。」
7:明治10年内国勧業博覧会のある館で小さなゴム風船を空中に飛ばした(東洋新報23号記事)。
8::明治10年「読売」記事より、「湯島の球紙鳶屋杉本九兵衛が硫酸瓶の爆発でけがをした。」
この記事で東京ではこのガス風船を「球紙鳶」といったことがわかる。

本の記述は以上のようですが、これらの記事内容を整理してみますと、「ガスいりゴム風船が慶応4年に日本で売りだされていた。珍しい商品で騒ぎになったが注目されていた。価格は現在のよりも高めの3/8両であった。(推定で現在価格は3000円から5000円くらい)。明治5年の鉄道開通式典や、明治10年から始まる内国産業博覧会(現在でいう万国博覧会)などのイベントでアドバルーンとして使用された。街中でも凧の変種として人気があった原料の水素ガスは危険で事故などが起きるので販売禁止になることもあった」。ということでしょうか。
その後イベントや縁日などでガス風船は宣伝用利用されたりおもちゃとして販売されることは普通のことになりました。しかし相変わらず水素ガスが主体でした。安全なヘリウムガスの利用が主流になるのはだいぶあとで昭和時代の後半からです。もちろん現在のガス風船はヘリウムガス主体で現在にいたっています。
―内国勧業博覧会について
ネット上に鉄道開通式典や勧業博覧会の錦絵がありましたので確認してみました。夢と希望に満ちた新生日本の幕開けをつげる華々しい式典です。国旗、万国旗、のぼり、垂れ幕などの飾り付けが会場を彩っています。鉄道開通式にはカラフルなパラソルが見えます。
鉄道開通式典図
東京汐留鉄道御開業祭礼図(三代広重)       上野内国勧業博覧会(河鍋暁齋)
しかし軽気球(アドバールーン)を見つけることはできません。写生をした時間のタイミングや場所が悪かったのか、それともこの時代、気球というもの自体まだ一般に関心がなく、新聞記者だけが特別に注目して記事にしたのでしょうか。しかし式典会場やイベントを華やかに飾る気球(アドバルーン)や風船飾りの伝統は今でも受け継がれています。
尚、鉄道開開業祭礼図は東京港区のページ、上野内国勧業博覧会の絵はKokeshi WiKiのページからキャッチしました。